さくら桜 さんからの投稿

娘家族は熊本に住んでいます。大地震が起きたとニュースで知り、安否を確かめに飛んで行く積りでした。でも、娘の家には、避難して来ている友人家族も同居していると聞いて、行くのを諦めました。それに、新幹線もマヒ状態でした。会いに行けるまでじっと待っている10日間が、私には一番辛くて長く感じました。いつ臨時ニュースのテロップが流れても見逃さないように、真夜中でもテレビをつけっぱなしにして、そこで眠りました。

やっと会いに行けたのは、新幹線が動き出して2日目です。「昨日から水が出てきて洗濯もできてお風呂にもはいれた!」。無事に会えた孫の言葉にホッとしました。近くの大型ショッピングモールは3件とも被害に遭い、今年中には再開できるか分からないそうです。食料品や日用品はどうにか調達できるのですが、その一歩上の、本とか洋服とかは買えそうになく、映画を見に行くなど、もってのほか。熊本にいる間は、何度も襲ってくる余震にも慣れてしまい、真夜中に目覚める癖までつきました。

でも、関西へ戻って来たら、どうしたことか時々揺れを感じるのです。昨夜も「震度4だ!」と飛び起きて、直ぐに携帯で確かめたら、何も起こっていませんでした。自分では順応性があってまだまだ若いと思っていましたが、現実はちょっと違ったようです。

約20年前の阪神淡路大震災の時、娘は関西にいました。2度も大震災を経験して母親の私を抜きました。喜ばしいことではないですが。これ以上どこにも大きな地震が起きませんように。

4 thoughts on “さくら桜 さんからの投稿

  1. 娘さんご一家が無事でよかったですね。これは、「さくら桜さんの愛する人々の命があってよかった」という意味です。人間、もっとも辛いことは愛する人を理不尽な災害・災難に奪われることでしょう。私は5年前に東日本大震災を経験しましたが運よくほとんど被災していません。
    ただ被災者の一人奥田江利子さんの
       『最愛の人を失ったというのに自分が生きている悲しみ』
    というスピーチは魂の慟哭であり、真の悲しみとは何かを語りかけています。引用しておきましょう。
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     東日本大震災では大勢の人が亡くなりました。そして、いとおしい人を思い続けるたくさんの人が残されました。
    私は津波で甚大な被害を受けた、宮城県石巻市北上町に2人の子供と両親とで住んでいました。

     震災の1週間前は、23歳だった長男、智史の結婚式でした。息子夫婦が入籍の日に選んだのは3月11日でした。2人は我が子の誕生を楽しみに、人生で一番幸せな時期を迎えていました。私たち家族も、その将来に向けてささやかな幸福を感じておりました。震災の日も、いつもと変わらない朝を迎えて、変わらず明日が来ると・・・来ないなんて思いもしませんでした。

     地震の後、息子は家族の身を案じ、妹と祖父母が身を寄せていた近くの指定避難所に車で向かったそうです。津波が海から数メートルの避難所を襲い、たくさんの尊い命をもぎ取り奪っていきました。
     窓からは、迫りくる波が見えただろうに、「どんなに恐ろしい思いをしたか」。それを思うと、胸が締め付けられます。ただかわいそうでかわいそうで、いたたまれません。

     次の日、避難所から100メートルの自宅のあった場所近くで息子は見つかりました。一緒にいたはずの娘は家族の一番最後、1カ月後にやっと見つかりました。息子は、妹をその胸の中で守っていたかのように手を組んで水たまりに横たわっていました。「おかあ、俺なりに頑張った」。そう言っているようで、「おまえ頑張ったな。えらいぞ。みんなと一緒にいてやったんだよね」。何度も話しかけました。

     冷たくなった夫にすがって泣き続ける嫁。こんな残酷な思いをさせてしまって本当に申し訳なくてすまなくて、残されたこの子らがふびんでなりません。

    身重の妻を残して逝った息子の気持ちを思うと、どんなに無念だったか。この母が代わらせてもらいたかったです。

     見渡す限りの惨状に地獄はここだと思いました。私の大切な家族。強くて厳しかったけれども、芯の温かだった母。一家を辛抱強く支えてくれた父。
     年のはなれた妹を心底可愛がり父親代わりをしてくれた息子。心優しく、その笑顔が我が家の明かりだった娘。14年ぶりに授かった娘は家族の宝物であり私の生きがいでした。

     受け止めがたい現実、やり場のない怒りと悲しみ、そして限りない絶望。最愛の人を失ったというのに自分が生きているという悲しみ。「生きることがつらい」と思う申し訳ない気持ち。生きている事が何なのか、生きていく事が何なのかを考えることさえできない日々が続きました。

     愛する人を思う気持ちがある限り私たちの悲しみが消えることはないでしょう。遺族はその悲しみを一生抱いて生きていくしかありません。だから、もっと強くなるしかありません。
     今、私はこう思うようにしています。「子供たちが望む母でいよう」「これでいいだろうか」「こんなときに両親はなんと言うだろうか」
     そう思う事で亡くした家族と、「一緒に暮らしている」と感じていたいからです。

     絶望の中にさす光もありました。息子は私たちに生きる意味を残しました。忘れ形見の初孫が7月に生まれ、元気に育っています。その孫の成長が生きる希望へとつながっています。

     最後に被災地の私たちを支えてくださった多くの皆さん、日本全国、世界各国の皆様に心から感謝申しあげます。皆さんからの温かな支援が私たちに気力と希望を与えてくださいました。だから今日まで過ごしてこられました。
     その恩に報いるには、私たち一人一人がしっかり前を向いて生きてゆくことだと、そう思っています。さし伸べてもらったその手を笑顔で握り返せるように乗り越えていきます。
     本当にありがとうございます。

     

    1. Mt.蔵王さん、思いきって熊本地震のことを投稿しましたら、格調高いコメントを頂戴でき、奥田様の手記を読ませていただける機会に恵まれ感謝しております。

      胸が一杯になりながら奥田様の深い悲しみの波に吸い込まれるように一気に……。忘れ形見のお孫さんを授かられ、はりつめていた気持ちがホッといたしました。
      改めて東北の数多の方々のご冥福をお祈りいたします。

      ひまわりさん、阪神の震災の事、つい先日の事のように思い出されますね。我が家は、俵屋の水飴の様に曲がった阪急電車のすぐ近く。あの時以来、命さえあれば、何事も取り返しがつく!と肝に銘じています。

  2. 「さくら桜さん」へ
    娘さん一家の熊本の震災大変でしたね。「温泉めぐり」大好きな娘が2月に熊本に旅行し、未だに若い人が行方不明になっているあたりの橋を車で通ったそうです。熊本城の姿にもショック受けていました。どこにいても、震災に遭う可能性があるので怖いです。阪神淡路大震災の時、電話がすぐに不通になり、金沢の母達にも連絡がとれなくて心配かけた事思い出しました。又、娘が余震におびえて、いつでも逃げれるように、ガラスで怪我しないようにと思ったのか、靴を履いて寝ていてびっくりしたのも思いだされます。さくら桜さんも離れていてどんなに心配だった事でしょうね・・・。早く余震の恐怖がなくなりますようにと祈っています。今は家では食器棚やタンスを固定し、枕元とテーブルの下にヘルメットを置いています。
    連絡方法等も決めておかなくては・・・・もっと備えが必要かも知れませんね!!

    1. ひまわりさん、そしてMt,蔵王さん、さくら桜さん。場所は違っても、皆さん地震を経験されたんですね。私もです。21年前の大地震の翌日、友人の安否が気がかりで神戸繁華街まで捜しに出かけました。家を一歩出てから辿り着くまで、見慣れた景色のあまりの変わりように、夢なら覚めて!と何度も心で叫びました。友人は、瓦礫の山になった家の中で、家族のために食事の準備をしていました。元気で無事に会えて本当に嬉しかった!

      100前後の活火山がある日本列島には地震の要因となるプレートが4枚もあるとか。地震を食い止めるのは無理でしょうが、せめて被害が最小限で抑えられるよう祈るばかりです。

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