望  郷 (Mt.蔵王)

古い友人Nが脊椎管狭窄症を患い、2ヵ月あまり入院していた。退院したと聞き、私は純米大吟醸酒を片手に久しぶりに彼を訪ねた。彼は私と同じ金沢の出身で、高校も同じ二水高校である。私達は定年まで仙台の同じ大学に勤めていた。彼の奥さんは盛岡の人だが、私達が金沢の料理を何よりも好むことを知っており、酒の肴に平目と鯛の混布締めを用意してくれた。私達は飴色の混布締めに舌つづみを打ちながら、辛口の日本酒を酌み交わした。酔って来ると、話題はいつも故郷の話になった。Nが言った。

「最近、二水高校同窓会関西支部の今井さんという人から随筆を書いてほしい、と言われ苦労したよ」

「何を書いたんだね?」

「もちろん故郷を偲ぶ話さ」

彼はサイドボードの引き出しから原稿を取り出し、ためらいがちに私に見せた。題名は「望郷」であった。手にとって目を通すと、これまで私にさえ話したことのないNの人生がそこに凝縮されていた。

(望郷 二水生N)

二水関西の皆さん、頭を挙げて山月を望み、頭を低れて故郷を思う、そんな気持ちになったことはありますか(李白)。

大阪から金沢までサンダーバードで2時間半、故郷は近いですね。私の居住地仙台から金沢は、北陸新幹線「かがやき」ができたおかげで3時間20分。関西に住む方々より50分多くかかるだけです。しかし私は、望郷の思いが非常に強い。思いの強さは、居住地と故郷との地図上の距離や汽車賃だけでは決まらない。

昔、長崎に出張した時のことである。仕事を終え居酒屋に立ち寄った。隣りに座っていた男がマイクを握り千昌夫の「望郷酒場」を歌い出した。歌詞が「酔えば恋しい牛追い唄が」に差し掛かると、男の声がかすれた。男の顏を見上げると、ぽろぽろ涙を流していた。唄が終わった時、私はもらい泣きをこらえ男に話しかけた。男はとつとつと語り始めた。「俺は岩手県の人間だ。若い時長崎に出稼ぎに来て、こちらの女に惚れ所帯を持った。故郷を出て40年、一度も岩手に帰っていない」と。帰りたくても帰られない事情があったのだろう。私は彼にコップ酒を1杯おごった。

望郷とは、異郷で暮らす人の魂が、故郷の夕空をさまようことではないか。1965年に親の反対を押し切って東北大学大学院に入った。自活しながら研究に没頭した。博士論文がアメリカの著名な賞を得たおかげで、東北大学に職を得た。研究という生業は私に合っていた。1980年(37歳)に世界で初めてボルツマン方程式の解法を発見した。世界の研究者が挑戦し、だれも果たしえなかった課題だった。欧米で高い評価を得、後に紫綬褒章も受章した。

人生の大半を異郷仙台で過ごして来た。こちらに来て半世紀が過ぎた。父も母も亡くなったが、父母は死ぬまで、家業を継がなかった私を許さなかった。私がどんなに他者から称賛を浴びようとも、褒めてくれたことは一度もなかった。親の墓は金沢にある。盆の墓参りは欠かしたことがない。墓前で親不孝を詫びながら、どう生きるかという人生の根本について、親と理解し合うことができなかった不幸を思わずにはいられない。

室生犀星の「小景異情」を、時折り詩吟の会で吟じている。

ふるさとは 遠きにありて思ふもの

そして悲しくうたふもの

よしや うらぶれて異土の乞食となるとても

帰るところにあるまじや

どんなに故郷に憧れ、故郷を愛していても、そこには自分を温かく迎えてくれる人も住み家もない。そんな犀星の孤独が身に沁みる。

私も犀星の没年になった。最期の居場所はどこにしようか。いや、どこでもいい。

(釈月性)

骨を埋むる 何ぞ期せん墳墓の地

人間到る処青山有り

4 thoughts on “望  郷 (Mt.蔵王)

  1. ライラックさん
    新しい投稿が載せられると、いつもコメントを返されてますね。
    優しさと思いやりに満ちたコメントに触れて心が和みます。投稿される方にとっては、どんなにか励みになることでしょう。

    管理人さんへ
    1月中旬には、HPのトップページが開けないと案内されてましたが、今は元どおりに復活されたのですね。修復までの3ヶ月間、何かとご不便だったとお察し致します。
    地道な取り組みに心より感謝します。ありがとうございます。

  2. ライラックさん、早速のコメント嬉しく思います。胸の痛みはもう大丈夫ですか。貴女の最後の2行は子を持つすべての親の希望であり、願いですね。
     しかし世の中には親と子の求めるものが二者択一でしか成り立たない場合があります。父は死にもの狂いで築いた家業を息子に継がせたいと思い、息子は学問に人生をかけてみたいという夢を抱いたとき、妥協の余地がない対立が生まれます。父は息子を勘当し、湧き起る愛情をすべて払拭して生きようとするでしょう。悲劇の始まりです。
     昔、映画「砂の器」を見て涙が止まりませんでした。(1974年、原作 松本清張、監督 野村芳太郎)自分を裏切り、自分を捨てた息子を必死で守ろうとする本浦千代吉の形相が今も忘れられません。その形相は、『子を思う親の愛というものは、見返りを全く求めない絶対的なものであり、たとへ息子に死ねと言われても殺されても変らない』と語っていたのです。

    1. ずっと胸は痛みましたが今回のコメントを拝見してホッとしました。
      それほどの究極の選択に追い込まれたことがないので何も言えませんが
      親御さんの痛みはとっくに届いていらっしゃったご様子で深く頭を垂れております。
      教えられる事多々で感謝です。ほんとにありがとうございます。

  3. Mt.蔵王様

    余りにも強い望郷の念に打たれて胸が切なかったです。痛かったです。
    痛かったのは多分ご両親が反対なされて許して下さらなかったとの件。
    そう感じていらっしゃるだけできっとご両親は喜んでいらっしゃったのではないでしょうか?

    でも口に出して誉めて貰いたかったですよね。
    親からの褒め言葉は何よりの金言と言うか宝になりますしね。

    改めて振り返り親に何気なく誉められて嬉しかった事を思い出すと同時に逆に私は
    これからきちんと我が子の良さを見つけてうまく誉め言葉で伝えられるかしらん?
    と少し反省しました。(我が子と言えども私の私物ではありませんしね)

    元気な日々を送ってくれている、それだけでも充分に喜びですから
    小さな喜びからきちんと伝えていけたらと凡人の第一歩です。

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