上げ潮の中で  Mt蔵王

 

              上げ潮の中で

Mt.蔵王

魚釣りの楽しみは獲物だけではない。私は景色のよい大河に行く。釣れなくてもいい。大河の岸辺に立っていると、多少の孤独感と引き換えに心が目に見えない呪縛から解き放たれる。釣り竿をかたわらに捨て置き、民謡を踊っている男に出会ったことがある。野いばらで作った花の冠を頭にいただき、「釣れますか」と近づいて来た女もいた。私は葦の間に隠れ、好きな漢詩を吟じたりしている。魚釣りの舞台の役者はみな自由人になる。

以下は釣り仲間の青木の話である。作り話にしては妙にリアルである。

2011年の東北大震災の前、青木はよく魚釣りに出かけていた。仲間と一緒のときもあるが、たいていはひとりである。気に入った風景の中で、ひとり呆然としていたいからである。彼はよく北上川へ出かけていた。

北上川下流は広大な葦原が美しい。葦の丈は人の姿をかくして余りある。晩秋の葦原にひとり佇み風のさやぎに身をまかせていると、来し方が思い出され、心が揺さぶられる。

夕日が川面に写り、潮が満ちて来た。河口から上げて来る白波をながめていると、20年前の記憶がよみがえって来た。

 

それは夏の終わり頃であった。青木は多賀城市の砂押川河口付近で、魚釣りをしていた。草木もない低い中洲に、青木のほか数人の釣り人がいた。午後3時ごろ、潮が満ちて来た。このあたりでは、上げ潮の足は速い。1時間に1メートルも水かさが増す。

白波を蹴立てて、海から川へ流れがどんどん逆流して来る。すると、川には沸き立つような活気がみなぎる。魚は水面を飛び跳ね、水中では銀鱗が激しく交差する。空では、魚を狙ってウミネコの群が騒ぎ出す。釣り人にとってチャンス到来である。入れ喰い状態が始まるからである。

しかしこの幸運は長続きしない。低い中洲ではたちまち水が足もとまで迫り、岸に戻る準備を始めなければならない。

ふと下流に目をやると、ひとりの釣り人が、上げ潮を全く意に介せずゆうゆうと釣竿を振っている。不思議に思い顔をのぞき込むと、女人であった。釣り好きの青木でも、女ひとりの釣り人に出会ったのは初めてであった。

年は三十代後半か。ジーパンに長袖の白のブラウス、左の胸にイタリックでEikoと刺繍がしてある。野球帽のつばから額に髪がこぼれていた。  帰り支度をしながら、青木は声をかけた。

「今日は潮の足が速いですね」 女は浮きをにらんだまま  「そうね。でもこれからが勝負ですよ」 と応えた。岸にひき上げる様子は全くない。ヒュッと竿が空を切り、スパッとおもりが水に消える。なかなかの手だれだ。すぐさまアタリがあり、女の竿が大きくしなった。大もののようだ。セッパがダブルで来たのかもしれない。緊張で引き締まった女の横顔が美しい。そこには、孤独の翳りなどみじんもない。

くるぶしまで水が来たが、青木ももう少しねばることにした。河口では海から寄せる波はさらに高くうねって、波頭が白くくずれた。波の向こうに見え隠れする水平線が美しい。

 

水かさはさらに増し、青木のひざまで来た。中洲はもう水面下に消えた。心配になり

「水は、もうすぐ腰まで来ますよ」 と、女に声をかけた。

「私なら大丈夫。満ちて来る潮が好きなんです。ダイナミックで力強くて。そちらは引き上げた方がいいわよ」 と、強気な返事。

この人は何を考えているんだろうといぶかりながら、身の危険を感じた青木は岸に向って歩き始めた。途中で足を止め女の方を見ると、勢いを増す白波の中で、ゆうゆうと竿を振っていた。

岸にたどり着いた青木は、腰を下ろし女の身を案じた。なぜこんな捨て身の釣りをするのか、どうにも理解できなかった。

まもなく水かさは女の腰を超えた。見かねた青木は、「戻れ!」と叫んだ。女はふり返り、笑顔で手を振った。OKの合図のようだ。「心配させておいて、なんという余裕だ」と、腹が立って来た。

びくの紐を首にかけ、水面に浮かべた竿を胸で押しながら、女は抜き手で泳ぎ始めた。あざやかな泳ぎっぷりだ。

岸に泳ぎ着いた女は、呼吸の乱れもなく、青木のわきに腰を下ろした。そして

「ありがとう、心配してくれて」 と言った。着衣から水がしたたり落ちているが、気にするようすもない。

しずくが頬を伝い、右手首のブレスレットに落ちた。濡れたブラウスの二の腕から、肌が透けている。青木は目をそらし、言った。

「無茶しすぎだね。命が惜しくはないんですか」

「命は大切だけど、もう十分生きたわ。それに、こんな変な女、波にさらわれても誰も気に留めないわ」

「まだ若いのに、何を言ってるんですか」

と、青木は軽くとがめた。そして尋ねた。

「家族は?」

「親も子供もみんな失ったわ。夫は私のもとを去り、一時は、頭もおかしくなったわ。すべて終わったことだけど」

青木には返す言葉がなかった。女の目が明るく澄んでいるのが、わずかに救いだった。無言の青木を気遣ってか、彼女は付け加えた。

「でも、ひとりでも楽しみはいろいろあるの。日和山から海を眺めたり、絵を描いたり、バイクで風を切って走ったり、それに何よりも魚釣りが好きだわ」  「その日和山って、石巻の?」

「違うわ。野鳥保護区の蒲生海岸にあるの。日本一低い山なんですって。高さは10メートルくらいかな? 」 と言って、女は笑った。

「でも眺めはすごくいいのよ。目の前の干潟ではサギが獲物を狙って抜き足差し足、沖にはよく大型の白い船を見かけるわ」

「一度行ってみたいな」 と青木は言った。女は黙って波頭を眺めていた。  「さあ、そろそろ始めようか。手伝って!」 と言うと、女は川岸に浸けてあったびくを引き上げ、中から次々にハヤを取り出した。ハヤは草の上で跳ねた。

「何をするんですか? 」

「空を見て! ウミネコのディナータイムよ」 と言うと、ハヤを1匹つかみ、空高く投げ上げた。ブレスレットがきらりと光った。1羽のウミネコが急降下して来て、みごとにキャッチした。女は、「よしっ!」と声を発した。

私達は交互にハヤを投げ上げた。ウミネコがしくじると顔を見合わせて残念がり、首尾よくキャッチすると、手をたたいて喜び合った。

ウミネコの群は次第に大きくなり、羽音が聞こえるほど低空に降りて来て、ご馳走をせがんだ。 「ところでハゼはどうするんですか?」

と、青木は尋ねた。

「今日のハゼは大きいから、さしみね。ここのハゼは飴色をしていてきれいでしょ。おいしいのよ」

「ハゼのさしみなんて、初めて聞いたよ」

「そう? 大事なのは、すばやくさばくことね。そうしないと透明な生身がくすんで味が落ちるから」

少し迷って、女は言った。

「食べさせてあげたいけど、今日は止めとくわ」

 

女は立ち上がり、帰り仕度を始めた。堤防に上ると、大型のバイクが止めてあった。半かわきの白のブラウスの上に赤のウインドブレーカをはおると、バイクにまたがりキックした。エンジンは一発でかかった。2、3度アクセルを吹かした。エンジン音があたりに小気味よく響いた。ヘルメットをかぶりながら、青木の顔をじっと見た。青木は、不自然だと知りながら

「我が身を大切にしなくちゃ」 と言った。女は、「ありがとう」と言って右手を差し出した。熱い手であった。

青木は走り去る女をずっと見送っていた。彼女は一度も振り返らなかった。いや、本当は、振り返ることができなかったのである。女は、子供を亡くし悲嘆に明け暮れていた頃以来、こんなにあたたかい人の情けに触れたのは初めてであった。涙があふれた。こぼれる涙もそのままに、さらにアクセルを吹かした。

 

青木はあれ以来Eikoに会っていない。20年が過ぎた。また、今後も会うことはないと思っていた。しかし、最近、大学病院のモールを歩いていたらEiko F.という署名入りの絵が壁にかかっていた。長期入院でもしていたとき描いたのであろう。暗い夕景だったが、地平の小さな茜雲が希望を感じさせた。青木はEikoの無事を祈った。

我に返り青木は北上川に目を転じた。沈む夕日の中で金色に輝いていた葦原も、いまは夕闇に包まれた。とぷとぷと岸を洗う波だけが、大河の静寂のなかで息づいていた。

 

8 thoughts on “上げ潮の中で  Mt蔵王

  1. ほんとに素敵ですね。同感です。

    お話が始まる前の段階で「野いばら」が出てきましたが
    昨年末の読書会で『野いばら』と言う本を読んだばかりだったのでどこか懐かしいでした。
    そして漢詩を吟ずるというMt.蔵王さん、今度は漱石を思い出しました。

    釣りって孤独な闘い?って思っていましたが野いばらの花言葉の中に“孤独”がありました。

    何かあちこちいろいろと繋がっているようで深まります。ありがとうございます。

    1. 二水健児さん、コメントありがとうございます。北上川は宮澤賢治が愛した花巻のイギリス海岸付近の中流と、今回登場した葦の原が拡がる下流域(追波川)では別の物語を想起させます。大河にはいつも表情があり、大河に向かって佇む人のこころを揺さぶります。ここでは上げ潮という圧倒的な大河の力に身をあずけ、その中で生死を決めようと考えていた女の物語になりました。青木によってEikoは、
       人間は、見ず知らずの他人から受けたたった1つの情けでさえ、心のともし火にして生きて行ける
      と気づいたのです。

    2. ライラックさん、読んでいただきありがとうございます。偶然が重なり「野いばら」はさらに印象深いものになりましたね。しかも花言葉の中に”孤独”があるなんて!知りませんでした。野いばらで作った花の冠を頭に乗せて私に見せに来た見知らぬ女は、笑顔なのに、孤独の極にいました。優しい言葉がなかったら壊れてしまいそうな。私が「素敵だよ」と言うと、恥ずかしがりながらいろんなポーズをして見せてくれました。そして二人で大笑い。ほんとの話。

  2. 甘く切ない物語ですね。作者の詩心も手伝って、ストーリーは上げ潮のように迫ってきて、去って行きました。それにしても、北上夜曲の悲しい物語を思い起こさせる北上川は人の情緒を交錯させる独特の環境を作っているのでしょうか?一度、ゆっくり訪ねてみたいものです。

  3. しろねこさん、早速のコメントありがとう。
    潮が満ちて来るダイナミックな美しさを描いてみました。
    大河に魚釣り行くと、時にはドラマが待ち受けています。大自然の中で人々は心が解き放たれ、本来の自分に戻ろうと思うからでしょうか。
    彼らは見知らぬ他人なのに、私は「愛おしい人々、また会う日までどうぞつつがなく」と思ってしまいます。

    1. 雄大な森に抱かれたり大海原を眺めたりすると、不思議と心が洗われる。大自然には人を癒し育んでくれる力があるようです。自然に親しみ観察することで、身をもって得た体験から描き出される描写の迫力に惹きつけられます。

      2人の登場人物のエピソードはさておき、生き生きと描かれる葦原や満ち潮やウミネコこそが物語の主人公なのでは?
      「愛おしい人々、また会う日までどうぞつつがなく」と心で囁く作者に、深い人間愛を感じます。

      1. ジュネラハさんコメントありがとうございます。貴女も自然派のようですね。私は子供の頃河北潟に近い村に住んでいましたので、小学校に入る前から自然派です。河北潟、浅野川、金腐川、大宮川、八田川が私の遊び場でした。
        昭和40年に仙台に移り住んでからは、私の遊び場は北上川、鳴瀬川、砂押川になりました。特に、表情豊かな北上川が好きです。
        今度の物語は、退職1年後に、元の職場が出版している文集の編集部から、今の心境を書け、と言われて書いた詩を基にしたものです。東日本大震災の前の北上川の姿です。引用します。

            「北上川に白鷺舞う」

         このごろよく北上川下流へ魚釣りに行く
         水辺には広大な葦原がある
         葦の丈は我が姿をすっかり隠して余りある
         かきわけて歩を進めると、よしきりがあたふたと飛び立った
         対岸では一羽の青鷺が川面を見つめ、思索にふけっている
         葦の間から天を仰ぐと、濃いブルーの空に孤高の白鷺が舞っていた
          一陣の風が立ち葦の穂がざわついた
         葦原の真っただ中にひとり佇み、風のさやぎに身をまかせていると
         無為徒食の今の人生が無限に豊かなものに思われてくる
          夕日が落ちるころあたりはほの暗く、葦原だけが金色に浮かび上がった
         この美しさこそ我が旅立ちへのはなむけか

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