東北の四季 Mt.蔵王

東北の四季

Mt. 蔵王(13期)

東北には遊休の土地と心のゆとりがまだ十分残っている。先人達が広大な花の楽園を作り、人々を楽しませている。

私にとって、春は、蔵王のふもと、遠刈田の近山を包む白雲から始まる。白雲の正体は満開の梅林である。遠刈田は梅干しの産地として知られている。梅林の中を散策していると、体中が香りに染まる。白梅がほとんどだが、たまに薄ピンクの花をつけた木が混じっている。これは梅の実を収穫するためではなさそうだ。枝打ちや下草刈りの作業に疲れた人々が、ほっと一息つくために植えたのではないだろうか。花を見上げていたら、坂を上って来た農婦が笑顔で

「今年もお会いしましたね。よほど白梅がお好きなんですね」

と声をかけて来た。

梅が終わると白石川堤防のひと目千本桜に足が向く。毎年欠かしたことはない。桜並木が満開になると、堤防の下を走る電車は徐行運転する。堤防から下を見ると、乗客の顔が皆桜を見上げている。枝もたわわな満開の花が風に揺れていると、生きている喜びを実感する。13年前に脳を患った私に、命のありがたさを自覚させる。桜が香る日は一日しかない。それは蕾が開いた日である。その日の朝、桜はもっとも美しい。

染井吉野が散るころ、奥松島の山々に山桜が咲き始める。雑木の新芽が開く直前である。山桜は周囲の雑木より丈が高い。幹はのびのびと真っ直ぐ空に向かう。周りの樹木より、より多くの光を得ようとするたくましさを感ずる。花と葉は同時に開く。私は海老茶の葉を持つ山桜が好きだ。花は薄ピンクだが、葉は花を濃いピンクに染め上げる。海からやって来た一陣の風が通り抜け、枝先の花が一斉に揺れると、あまりの美しさにめまいを覚える。

長井市のつつじ園はまぶしい。花はすべて白である.満開の園内はさながら初雪の朝である。この世でもっとも美しい色は、輝く白であろう。白い花を何よりも愛するこの町の美意識に舌を巻く。

村山市のバラ園も毎年訪ねる。山あいの広大なスペースがバラで埋め尽くされる。園内に1歩足を踏み入れると、花の香りを乗せた風が私を誘い込む。初夏の日差しは強い。私は額の汗を拭いながら花にすり寄り、赤、黄、白、…の

花の香りを楽しむ。ある日、このバラ園で私は盲目の婦人に会った。車椅子の婦人が「白バラはこの辺りですか」と訊ねた。私は彼女の車椅子を押し、すぐ近くの白バラの花壇へ案内した。彼女は香りで花の色が分かるようだ。

この世で一番美しいものは何か。私は実った大麦畑だと思う。麦秋のころ、大麦畑を風が通りすぎると、黄金の穂波がつぎつぎ寄せて来る。あたかも大地が波打つかのような錯覚に、私は軽いめまいを覚える。目を閉じ耳をすますと、穂波からかすかに鈴の音が聞こえて来る。なぜか。大麦の穂先にはのぎというギザギザの針がある。針と針が触れ合うとき鈴のような音が出る。

秋になると,小野田町の薬来山の丘にコスモスが咲き乱れる。花園はどこまでも続いている。風に揺れるコスモスは頼りなげに見えるが、じつはタフな花である。風雨に倒されても、茎をねじ曲げてまた太陽に向う。私は薄ピンクや白を引き立てる濃い赤が好きだ。

泉ヶ岳山麓は人の丈よりはるかに高いススキが、どこまでも生い茂っている。風に揺れる銀の穂がまぶしい。芭蕉が「夏草や兵どもが夢のあと」と詠んだのはこんな景色だろうか。芭蕉ならずとも、ここにいると無常感が湧いて来る。いつしか私は、目を閉じ来し方を振り返っていた。

雪の朝は気がせく。樹木の小枝に一斉に雪の花が咲く。気温が上がる前に、風が吹く前に出かけないと雪の花は散ってしまう。まぶしい美しさを眺めていると、「同じ心の人に見せたい。その人と喜び合いたい」と、能因法師の心境になる。

 

(お気軽にコメント下さい。それが楽しみで投稿しました。)

7 thoughts on “東北の四季 Mt.蔵王

  1. M.蔵王様 
    お励ましをありがとうございます。

    大変恐縮ではありましたが自分自身について
    「幸せに生きてきたのだ」と教えられた事は
    単純な私には充分過ぎる喜びになった気がします。

    おかげさまで家族(主に夫ですが)に優しくを念頭に置くようになりました。
    と言いましても仙人ではありませんから相変わらず喧嘩もあったりで反省多しですが
    それでも「あなたは幸せなんだよ」と魔法の言葉をささやく事ができます。

    素敵な言葉の贈り物をほんとにありがとうございました。

  2. 河北潟近くの楽園生活がMt、蔵王さんを詩人に育ててくれたのですね。
    大いに納得できました。
    けど振り返って私もかなり自然豊かな幼少時代だったように思いますが詩人には成れていません。
    と言う事はそれほど育ち様は関係しないという事でしょうか?

    「物を観察し、対象と対話し、感動する」との弁。
    豊かな自然の中にいながら多分私は観察力不足で成長してしまったのでしょうね。
    ぼんやり生きてきてしまいました。

    けど本を読むことは好きですし、気の合う仲間との語らいはもっと楽しいです。
    そんな時間を大切にして、語り合える友に感謝して笑いを重ねていければいいのかもね。
    詩人には程遠いし、その他いろんな事に程遠いけどしょうがないか・・・。

    1.  ライラックさん、新年おめでとうございます。再コメントありがとう。なんだか私信を公開しているような気分になって来ました。それもまた楽し、かな?貴女の文章にはいつもあたたかさとユーモアがあり、貴女が幼少時代も今もしあわせだと分かります。穏やかな笑顔に接すると、多分初対面の私も嬉しくなるでしょう。それは貴女の美徳です。「しょうがないか」なんて思わないで下さい。

       少年期を過ごした村での生活では、大人と子供を区別しません。何事に対しても「どうして?なぜ?」と考えてしまう少年にはつらい世界かもしれません。たとえば、大人たちは直情的な愛情のもつれを少年の目にさらします。少年は「愛し合うとはどういうことか?」、を自分で考えるしかありません。また、地主・自作・小作の身分制度は小作の子供の祭りへの参加を拒否し、小作の子供を悲しませます。小学生であっても社会の不公正を憤りながら生きています。小3の私は「いつかこの村を出たい。村人の感性は自分には合わない」と思って過ごしていました。祖母の葬式では孫たち4人で棺桶を担ぎ、吹雪の中、火葬場まで運びました。雪道を一歩一歩踏みしめながら「人の死とはなんだろう」と考え続けるのです。
       ただ前回述べましたように、村の自然は少年を魅了して余りあるものでした。堤防のシオンの花もナマズもギンヤンマも、シマヘビでさえ、親友のような存在でした。自分に特別の観察力があるとは思いませんでしたが、対象が勝手に私の中に入り込んで来ますので、感覚がいつも研ぎ澄まされました。もし詩人というほめ言葉をそのまま受け入れるなら、そうならざるを得ない体験をして来たと言えるでしょうか。
       ライラックさんが私の村の住人で小作の娘だったなら、間違いなく詩人になっており、
      また親友になっていたかも。もちろん蛇は私が追い払ってあげます。

  3. 読み応えのある「東北の四季」でしたねぇ・・・

    何度か読み返しながらもそういう中でお過ごしのMt.蔵王さんの心豊かな日々というか細かい観察眼というのか素晴らしい文章力でもあるのかそこらあたり全てに多少圧倒されました。

    東北の自然と人々の暮らしをとても愛してとても感謝してお過ごしなのでしょうね。
    そしてMt、蔵王様はきっと詩人。
    ぼんやりしてたらあれ程に四季を愛でる言葉を紡ぎ出すのは難しい気がします。
    やはり詩人。どうぞまたいろんな文章を寄せて下さい。楽しみにしております。

    1. ライラックさんのコメントを読んで、何だかホッとしました。Mr.蔵王さんの「東北の四季」、私も読みました。蔵王さんはコメント歓迎みたいに書かれているので、本当は何か一言感想を書こうと思ったんです。でも、気軽に書けないというか、自分の出る幕ではない感じがして、結局敷居が高過ぎて諦めました。だから、ライラックさんからのコメントを読んで、(そうそう、そうなんだ)、と共感です。気持ちを代弁してもらった気がします。ありがとう!

      1.  ジュネラハさん、コメントありがとうございます。書こうかやめようかと迷われた心境が鮮明に見え、肉声を聞いているような気持ちになりました。二水関西のHPは「気軽な往来」が一番の魅力ですから、迷った時は「投稿」しましょう。いつかお会いする機会がありましたら、書きたかったことを聞かせて下さい。

    2.  ライラックさん、コメントありがとうございます。二水関西のHPはコメントの往来があって楽しいですね。初めて詩人と言われ、素直に喜んでいます。今までは、「お茶目な人」(二水関東吉田支部長)、「ワンパクな少年」(あるスナックのママ)、「永遠のロマンチスト」(同期の一枝さん)などが関の山でした。でもだんだん実像に近づいているのかな?
       「蔵王の四季」は、見たこと、感じたこと、思ったことを思い出しながら書いてみました。バラ園で盲目の婦人に会ったときの感動は今も鮮明です。
       金沢では小学3年まで河北潟に近い千田という村に住んでいました。幼稚園はもちろん学校もなく医者もいない村でしたが、私には楽園でした。川に入って大きな鮒を手づかみするときの興奮、早朝地面から這い出してきたあぶら蝉の美しさ(光が当たっていないので、はねは若緑色)、黒と黄色の縞模様の胴体を見せつけて私の前を何度も行き来するオニヤンマの雄姿、…など。
       物を観察し、対象と会話し、感動する、そんな日々を送ったことが、作文を好きにしたのかも知れません。
       ライラックさんのコメントに、他者を愛するこころを感じました。 

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